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親鸞 よくわからない?

作者について [編集] 作者については、如信説・覚如説・唯円説がある。一般的には、唯円説を定説とする。本項も、唯円の作によるものとして記述する。 如信説については、香月院深励が提唱。論拠は、覚如がまとめたとされる『口伝抄』などの書物に、親鸞より如信に口伝が行われ、更に覚如がそれを授けられたとあることによる。 唯円説については、主に妙音院了祥が提唱。論拠は、唯円の名が作中に出ていることや、本文の流れからして東国門徒(関東の浄土真宗信者)であることによる。 沿革 [編集] 成立の背景 [編集] 本書の内容は、「善鸞事件」の後に作者が親鸞より直接聞いた話による。 善鸞事件 建長8年(1256年)5月、親鸞が実子である善鸞を勘当・破門した事件である。 事件から遡ること約20年の嘉禎2年(1236年)頃、親鸞が東国から京に帰った後の東国では、様々な異義が生じ、異端を説く者が現れ、東国門徒が動揺するようになる。その事に対し親鸞は、息子の善鸞を事態の収拾に送った。 しかし善鸞は、異端を説く者を説得しようと試みるも応じなかったため、私は親鸞より真に往生する道を伝授されたと称し、第十八願は「しぼめる花」であるとし、自らの教えが正しいと説いた。 善鸞が異端を説いていることを知った親鸞は、秘事を伝授した事はないと東国門徒に伝え、善鸞に義絶状を送り、親子の縁を切り破門した。 その後、関東から上洛して親鸞に事を質したのが、唯円を含めた一行であった。 親鸞の死後も、法然から親鸞へと伝えられた真宗の教え(専修念仏)とは、異なる教義を説く者が後を絶たなかった。唯円は、それらの異義は親鸞の教えを無視したものであると嘆き、文をしたためたのである。 これに、唯円が覚如親鸞の教えを教授したこと、『口伝抄』に『歎異抄』と類似した文が含まれることなどから、本書は覚如の要請によって書かれたのではないか、とされている。 編集された時期については、親鸞が死してより30年の後(鎌倉時代後期、西暦1300年前後)と考えられている。 再発見 [編集] 本書は、成立から数世紀の間ほとんど知られて来なかった。しかし江戸時代中期になって、荻生徂徠本居宣長などの影響により再発見された。その後、香月院深励や妙音院了祥などの学僧によって研究が進められ、深励の『歎異鈔講林記』・了祥の『歎異鈔聞記』などの注釈書が書かれた。 明治時代になり、清澤満之らによって再評価され、世間に周知されるようになる。 構成 [編集] この短い書は以下のような構成からなる。 真名序 第一条から第十条まで - 親鸞の言葉 別序 - 第十一条以降の序文 第十一条から第十八条まで - 唯円の異義批判 後序 流罪にまつわる記録 十条において、親鸞の言葉は唯円による歎異の論拠へと進化している。 真名序 [編集] 真名序は、この文が書かれることになった目的・由来が書かれている。すなわち、「先師の口伝の真信に異なることを歎」くのである。 そもそも関東の教団は、善鸞の事件もあり、異義が発生しやすい土壌であった。親鸞の入滅によりますますその動きが加速した。主な異義としては以下があった。 どんな悪を犯しても助ける弥陀の本願だからと、少しも悪を恐れない者は、往生できないとする異義。 経典を学ばない者は弥陀の浄土へ往生できないとする異義。 そこで、親鸞が唯円に語った言葉を副え、なぜそれが異義であるかを説明するのが本書であるとする。 また、この「先師ノ口傳」の「先師」を親鸞ではなく法然と捉える説もある。そこでは嘆きの主体は唯円ではなく、親鸞となる。